考えたい病 女の子編


頻繁にとは言わないが、どうしても「考えたく」なる日があります。
ジャンルなどはとくに関係なく、頭をドライブさせるのが気持ちいいんです。
特にある物事に対する自分の印象を掘り下げて、自分を分析するのが好きですね。
この前のエントリーも同根でしょう。


さて今回書くのは、女の子の話です。
もう30歳になるのに「男子な」ノリです。
まぁだけどモテたいとは違います。
どんな娘が好みなのって話です。



最初に明らかにしておきますが、
現在お付き合いしている人も狙っている人もいません。
きわめてつまらない日常です。


先日ちょっと触れましたが、振られてしばらく立っているわけで、
その間にいい人はって話になるのが普通かと思います。
まぁそれなりに生活していると女の子知り合わないことはないので、
次にってなっても可笑しくありません。
でもそうなってないのが現実ですね。
理由は簡単です。
いいって思わないんです。
顔や見た感じに関してはいいなぁって思うことがあっても、
なんか人間的にピンっとこないんですよね。
僕にとってルックスはそんなに重要なことじゃない気がします。
これをいうと、「そんなことはない、十分うるさい」って声が聞こえてきそうですが。


なにか基準がないとイメージしにくいので、
僕が最大限に気に入っていた元カノに登場してもらいましょう。
彼女のどこに惹かれたのか、一言で言えれば詩人ですが、僕は凡人なので細かく振り返ります。


最初に見たのは、彼女が働いている姿でした。
男ばっかりの職場に男と並び立つように入ってきたという印象です。
そういう環境ではどこか女の人だから無理はしませんよってタイプの女性か、
権利の主張や自己顕示欲が強くなってしまい少々おっさん化している女性が多いので、
それとは違った雰囲気があり気になる存在でした。
どちらかというと仕事ができるってイメージですね。
いやうまく言えないけど、仕事の後ろに隠れるんじゃなくって、
仕事を通して自己表現をしているような感じでしょうか。
社会に取り込まれる前の人間という風に見えて、新鮮でした。


僕は「社会をどう生きようか」と「自分をどう生きようか」の違いに敏感なのだと思います。


「社会をどう生きようか」の人は、社会ありきで、もしくは会社ありきで幸せを考えます。
枠組みに積極的にハマりにいくと言えばよいかな。
ちなみに僕はこれが苦手です。
人の用意した環境で満足しなさいっていうのは、向いていないのです。
ただし結果も予測しやすいので安定しているし、なによりもわかりやすい生き方です。
一方「自分をどう生きようか」というのは、自分基準です。
社会や仕事はひとつのアウトプットに過ぎず、大事なことは大事なことでしっかり持っている、
そんな生き方です。
社会や仕事を積極的に利用している、もしくはしたい、していけるそんな人です。
どちかと言えば僕は、こういう風に考えている人が好きです。
迷う分だけ不安定で、理解を得るには時間がかかる生き方だと思いますが。


ちなみに、後者がマスコミなんかでいいイメージで取り上げられることが多いので、
それブッているひと、例えば○○女子とかは嫌いです。
自分で考えていないし、判断もしていないからです。
そういう型を目指すのは前者に所属します。
僕はいい意味で空気を読まない人がいいです。
それでいて前者のこともよく知っていて、狭間で揺れ動けるってのが理想ですね。


話は脱線したので、もとに戻します。
仕事に向かう姿勢がいいと思ったのが最初の印象でした。
まぁそれだけで、好き〜ってならないわけで、とうぜん違う魅力もあります。
彼女の持つ儚さ(はかなさ)です。
その当時は説明できなかったけど、今いうならこういいます。


別に肌が白くて繊細で消え入りそうだとかいう意味ではありません。
たぶん常に一生懸命なんだと思います。
目標に向かってストレートに努力しています。
なんかこう研ぎ澄まされた日本刀の刃先のイメージです。
その存在が美しいのです。
もちろん妖しくも危うくもあります。
僕はどちらかというと印象としてそう思われることがままあるようですが、
日本刀のような鋭い感じではなく、自分では構造用鋼材の柔らかい感じです。
なのでそういった儚さに憧れるんだと思います。


それと対局なのが前述の「社会をどういきるか」という人たちで、
鋼を粘り強くするでもなく、研いですらもなく、型に流されるのを待っているのです。
鋼材の分類だと鋳鉄ってことになりますね。
言っときますが、僕は鋳鉄も好きなんですよ。
複雑な形もできるし、なによりも一品生産に近く質感がいいですからね。
ただそういうイメージだということです。


また儚さというのは、なにか理想に向っているときの姿勢のような気がしますね。
強がっているとか、無理しているとか、一般にそういう感じ方かもしれません。
いい印象ではない気がしますね。
でも、よく考え下さい。達成できていないことを目指すって素敵なことだと思いませんか?
その過程が、「強がってたり」「無理していたり」するように見えてもその先が大事な気がします。
その言葉を言っている人はがんばっている人に僻みはありませんか?
僕も弱い心のある人間ですので、常に他人のことを賞賛できるわけではありませんが、
素敵なことを素敵と認められる心を持ちたいって思っています。


儚いものは古来より日本的な美意識の中で重要な位置をしめてきました。
桜しかり清少納言しかりです。
まぁそういった難しい話をしてもいいのですが、
ただ単に女の子の話をしたいだけなので割愛します。
そういう僕の中にある日本人らしさも作用してるよってことです。


だらだらと書いて二つのキーワードありましたね。
「自分はどう生きようか」と「儚さ」です。
そしてあとひとつはあげるとすれば「素直さ」です。


彼女はよく「あなたが○○と考えているだろうから、私は○○したい」とちょっと遠回しに話しました。
ここにはふたつ感じることがあります。
ひとつは「私はあなたのことを考えていますよ」っていいながら、自分の機転のよさをアピールしていることです。
僕もそういう言い回しを使うので、特になにも思いませんが、通常はちょっと面倒に思ってしまいます。
僕自身もそう思われているかもしれないし、現実に思われていると思うので、どうでもいい話です。
僕のせいかもしれませんし。
で、ふたつ目は「素直」だということです。
こんな面倒なこと言わずにすめばいいのに言ってしまいます。
こういうのこそ素直ってことでしょう。


もっというとたぶん本当の気持ちでは言いたいことがたくさんあるのだけど、
状況を踏まえて論理的に話すとここまで話せますという印象ですね。
論理的なところなんて、すっ飛ばして「素直な気持ち」だけ言えばいいのに、
論理的なことも「素直」に言ってしまう、そんな可愛さがあります。
なんがか言葉遊びのような気がしてきましたが、大きな違いがあります。
素直さの濃度まで伝えることで、その濃度が一定に保たれているということです。
難しくなりましたが、表も裏もあるし、言わないこともあるよって素直に話すのはいいってことです。


成立しないと思いますがただの素直じゃなくって、僕が好むのは誠意のある素直さなのです。
いろいろ混同されやすいと思って同じ内容を言い換えて何度も書いてしまいました。
誠意と素直さはセットじゃないと意味がない、本質的じゃないと伝えたかったのです。
けっこういるのですよ、大人になっても素直に話したんだから、悪くないって奴。
そんな話こそ悪い冗談じゃないかと思ってしまいます。
こういうやり取りを冗談でできるくらいな大人な人がいいですね。




こんなに長くなる予定ではなかったんだけど、かなり長くなってしまいました。
まとめに入りましょう。


「自分はどう生きるか」ってのはただの文章なので「オリジナリティ」と言い換えます。
ということで、僕が女の子に求めるのは、「オリジナリティ」と「儚さ」と「素直さ」の3点です。
こういう女の子ってなかなかいませんね。
もちろん知らないだけってのもあります。
でも珍しいじゃないでしょうか。
なので、最近は全然心が踊らない、古い表現だと、ときめかない、のです。


いい歳なので、ひさしぶりに顔あわせるとそういう話題が必ず出ますが、
ここに理由を書いたので、読んだ人はその話題を控えてもらえると幸いです。
探しはしているがお付き合いしたい人がいないということです。


ふと思ったのですが、あの3点を満たしている人って普通にいい人だよね。
男女問わず、友達になりたいよ。
なんだかんだ言って、僕はかなり人を選んでいて、心が狭い奴なんだな。


そういう僕の友達でいてくれる人たちに感謝。

311から1年


去年の今頃、いつも焼き鳥屋で管をまいて気がします。


電車がまったく動かなくって、大変ということはわかっても全容がしれないままで、
ただただ共感できる人を待っていました。
だんだん事態が明らかになるにつれて、原発の話題が生活の中心となっていて気がします。
一緒に住んでいる友人と夜な夜な陰謀論に近いノリで事態を推測する日々が続きます。
振り返ってみるとその予想は悪いほうに当たっていたわけで、
するどい見通しがあったとしても結局は無力だということを痛感しました。


ご存知の通りその時期は失業中で、生活には困っていなかったのですが、
不安定な身分なもので気持ちも安定していませんでした。
そんな中「守る」について考えるようになりました。
僕はどちらかというと、どこまでアクセル踏めるかという、
短期間で物事を最適化して答えを実践していくタイプで、
一般的にいえばわりとリスキーな生き方だったと思います。
そんな僕が守りたいものがあることに気づいたのです。
大げさなものではありませんが、
僕がなんらかの関係を築けた人に幸せになってほしいと素直に思えるようになりました。
実際、望郷の念が芽生え石川に帰ることを真剣に検討していました。
いろいろあって帰っていないわけですが。
そういうことは無しにして「守る」を実行する方法について考えるようになったのです。


そのときは職もなかったので、自分のことで精一杯だったわけなのですが、
自分より危機に面している人を感じて、
自分の無力さに腹立たしくもあり情けなくなったり、もう大変でした。
ただ変に内面に向かわず安定していたように感じます。
圧倒的外部の干渉は内面に向かう暇を与えないと言いいますか、それどころじゃなかったのです。


そしてひょんなことから地震保険のサポート業務に就くことになります。
その前に寂しくなって元カノとよりを戻していたりしたのですが、特段書くことは避けます。


地震保険のお仕事は非常に心がすり減るものでした。
基本的には対物の話で人の感情が入る隙間がない業務でしたが、
契約している人は個人の方で、揺さぶられている感情を誰かに伝えたくしかたない人ばかりです。
僕が最初に日に共感できる人を待っていたと同じように、ずっと待っていたのでした。
最初の頃はそういった感情にのまれ食欲もろくにない状況でしたが、
人間とは残酷なものでそういった状況にもなれ淡々と業務をこなすようになりました。
そして時間を見つけては観光地に赴いたりと(本当はいけないことですが)自分を楽しませていました。
楽しんでいたかわからないのですが、笑顔を充電していました。
ここでは書ききれない話も多いので実態については割愛しますが、
僕は被災地に身をおいて足下を見つめる作業から始めたわけです。


最初はやっぱり興味本位でした。
でも僕も傷ついていたんです。
傷はなにかアクションを起こさないことには発見できず、治すこともできないものでした。
幸運にもその業務で自信を取り戻すことができて、前向きになりました。


それも簡単なきっかけです。
僕は集められたオジさんたちのマスコットであり、管理者でした。
最初から管理者だったわけではなく、徐々に昇格です。
通常ならそういうことはないのでしょうが、非日常の世界なにがあるかわかりません。
役目を与えられて人間として活力が戻ってきたのです。
ひとつの転機です。


またもうひとつ大きな出会いがありました。
この年を考えると恥ずかしいのですが、恋をしました。
最初にあった瞬間からなんとなく仲良くなりたいと本能でそう思った人です。
それも運命的に、実際は業務的にだけど、再会することができて仲良くなりました。


彼女は非常にできた人間で
常にリスクを背負いながら自分の好きが世界をつくっていく覚悟がありました。
見ていてさわやかな気持ちになります。
多少、いやこれは僕にもいえることですが、
正しすぎるところがあり、詰めが甘いことがあります。
具体的にいうと突き詰めることができるが、
期待した成果を必ず得られるかどうかは相手次第みたいなところです。
そういうところも含めて可愛らしいと思いました。
振り返って何をいっても無駄なので、これぐらいにします。
そういった出会いもあり順調かのように思っていました。
なにより浮かれてました。
今思っても楽しい日々です。


でもお別れすることになります。
原因は僕にあります。
仕事も決まらなくてまた自信を失い、そのうち彼女に依存するようになりました。
ただ彼女に嫌われたくないと思い過ごす日々はお互いにとって良いものではありませんでした。
彼女は現実と理想のギャップに苦しみ、主体性のない僕にイライラを募らせ、
彼女の手で決着をつけることとなります。


文章にするとあっという間ですが、真剣だったことだけは明記しておきます。
いい年ですので、未来を想像もしていましたし、僕は本当に好きでした。
ただやっぱりそのときは自信も実力もなく僕にはなんの価値もなかったので、
この結果でしかたなかったのです。
いま思うことはこの過ちを二度と繰り返しはしないぞということでだけです。


そうこうしているうちに仕事が見つかりました。
決まる時は不思議なものであんなに決まらなかったのに、4社から同時にいい話をいただきました。
その中の1社にいまも務めています。


その会社はオフィス家具の販売会社です。
前職では家具は家具でももう少しラグジュアリーなものを扱っていたので、
まったくの新ジャンルです。
建築の話もそこそこしか出てきません。
でも非常におもしろく感じています。


最大の魅力は評価がシビアだということです。
営業だから成績の話もありますが、お客様からの要求に対する評価がシビアなのです。
つまり空間になんらかの投資目的がありそれが果たされているかどうかに重点をおいてプロジェクトを判断します。
建築の仕事だと大きくなりがちでそういった実空間はセンスのよさとか曖昧な基準で判断されがちです。
ですが家具は直接ワークプレイスに関わるもので誰でもある一定以上の評価ができます。
建築業界のもつ詐欺っぽさ曖昧さより少ない形で空間に関われるチャンスができて、
勝手に楽しんでいます。
日々の仕事はクリエイティブなものとは到底いえませんが、仕事なんてそんなものです。


あとお客様が外資企業が多いと環境というのもおもしろいです。
前述の評価の話につながるのですが、彼らは明確にワークプレイスを投資の対象として管理しています。
簡単にいえば、作業効率を上げる手段として家具を含めた空間を見ているということです。
そのため日本企業に比べてオフィスにかける金額が違います。
そして狙いがはっきりしています。
新しいからいいのではなく、この目的を果たすために良いものだから導入するといったようにです。
この辺が建築っぽいものの考え方で僕は好きなんです。
これに付帯的に英語に触れる環境があるというのもいいと思っています。


もうひとつ、これは小さい会社だからかもしれませんが、家具販売以外の業務もやってます。
プロジェクトマネージメントといったものとあとはコンサルです。
プロジェクトマネージメントというのは、プロジェクトの進行を行う業務です。
与件を与えられ、デザイン会社を選定し、家具を決めて、ワークプレイスをつくるそんな感じです。
コンサルは与件を整理する仕事です。
僕は販売業務に慣れてきたらこういう業務に積極的に携わりたいと考えています。
モノで勝負するよりは、人で勝負したいのです。


というところで仕事に日々邁進しています。
細かい話をすると僕でも愚痴っぽくなってしまうので、遠慮させていただきますが、
上の人たちに可愛がられながらそれなりにやっております。




これまで時系列的に1年を振り返ってきましたが、
大きく変わったのは考え方です。


まず守るという意識ができたこと。
これはけっして保守的になったということではなく、自分以外にも大切な存在があることに気づいたということです。
故郷とか親とか親戚とか、友達とか地域のつながりとか僕の力が許す限り大切にします。
そのために余裕を身につけなければいけないのです。
わかりやすい目標を掲げます。
年収1000万円。
インセンティブではなく仕組みとして得られる報酬でです。
そうなればプライベートでもできることが増えるし、仕事を通して貢献できる範囲も広がります。
30代中に目処はつけたいところです。


また上流行程で勝負するということです。
僕は不運にも考えることを面倒だと思わないタイプの人間です。
なので誰かの代わりに考えるということを仕事にしようと思います。
まだまだ実際手を動かしチェックするといった難しくもないけど面倒な仕事しかできていません。
そこに居続ける必要はありません。
結果重視で攻めていきたいと思います。
これまで資格なんてモノは能力がない人が能力を補うための証明書ぐらいにしか思っていなかったのですが、
そういうものが利用できるのであればとことん利用します。
手始めに地震保険のお仕事の総括の意味を込めて損害鑑定人資格を取得しました。
そして今年の最大の目標は一級建築士です。
貪欲にしたい仕事をするためにがんばります。
適当なところで満足なんかしません。


もうひとつ、過去に対する捉え方も変わりました。
僕は責任は積極的に取りたくないほうです。
適当に責任を果たすとかぜんぜんできないので、
どんな些細なことで責任があるなら全力でやらないと気がすみません。
あとどちらかというとコレクション気質の完璧主義者です。
なのでうまく行かなかった過去や現在から振り返ってつじつまの合わない過去については、
できる限り無視したいと常々意識してきました。
でもいろんなものが急速に失われる現実に直面して、
自己正当化のためだけに過去をないものとして扱うのはどうかと思うようになりました。
むしろ黒歴史も含めてちゃんと背負っていかなくはいけないと。
だから今回のダイアリーでもなるべく素直に書いたつもりです。
これからは取り繕うより大切にすることを選びます。


男社会に来たのでちょっと攻撃的な気がしますが、
それもまた一興です。
311を振り返るとかいいつつも自分の話だけですみません。
でも僕はジャーナリストでも政治家でもないので、
現状の把握や対案の作成なんてものに興味はありません。
むしろどう生きていくか、それこそが重要なんです。
あんまり読んでほしくないせいか構成ができていない文章です。
キーボードに1時間以上向かって考えるのもいいものです。
やっと新しいフェイズに入る準備が整ったようです。
あとは走るだけだったらいいのですが、先一年も迷いながら、
でも忘れないで突き進んでいきたいと思います。




いろいろ書きました。
長々とちゃんと読んだ人はいないと思いますが、もしもためにお礼をさせて下さい。
どうもありがとうございます。

ダイアリー復活


どこかで311を振り返らなければという想いがあって、
はてなダイアリーを復活させてみました。
まったくメンテナンスをしていなかったので、
どうにも古くさいが使えないこともないので、
そのまま使うことにします。
過去の日記も消していません。
都合良く過去のことを忘れ去れるのは人間のひとつの強みであると思いますが、
決してほめられるものではないけど生きてきた時間を、記録を、大切に思うように最近なったからです。
考えているだけでも仕方ないので
ここに初心ではないけど所信表明をしておきます。


僕は自身が行いと向き合う覚悟があります。
その上で少しでも前に進んでいきたいと考えています。
なので、価値はないかもしれないけど少しづつ書いていくことにします。
それはtwitterかもしれないし、Facebookかもしれません。
もっと私的なmixiかもしれません。
でもログを残してそのときの感情を振り返るツールとしたいと思います。


村山太一

趣向


担当したリフォームの物件が、引き渡しはまだだけど、ほとんど形が見えるようになった。
まずこれに嬉しくてたまらない。
やっと形になった。
今回はブランをいじることはできなかったけど、仕上げと建具と開口によって住宅を更新できたと思う。



玄関ホール



ダイニングキッチン



応接室


最大の特徴は、住宅の中にたくさんのシーンを盛り込んだことである。
玄関ホールはまるでオシャレな飲み屋さんにきたような上品でファンタジックな佇まいを魅せている。
応接室は、優雅で落ち着いた雰囲気を持っている。
そして一転として、ダイニングが白を基調とした活動的で、シンプルな空気を内包している。
また、現代的なものの集積としてつくられた水廻りはどことなく和風を醸し出している。


このように住宅にはコンパクトながらたくさんの物語がうごめいているのである。
これは住む人によっていろいろ変っていくだろうが、住宅のひとつの側面である。
僕は強調したいのである。
「住宅は快楽である」と。


そうなんにも合理的な精神の上で運営されることのない計画があってもいいのである。
まぁこれは言い過ぎにしろ、快楽を強く意識するのがいいように思う。


実際のところ、禁欲的につくるのは、今の人には簡単なんじゃないかな。
禁欲的につくるってのも突き抜けると快楽にいくだろうし。
まぁそれに意識的になるってのは建築史的にはバロックロココ的な流れになるかもしれない。
けっして新しいことではないけど、そういうことと向き合うのは重要だと思う、最近は。


先日研究室の打ち上げで、芸術に何を求めるかという議論になった時にもそう感じた。
現代の芸術はどちらかというと、快楽主義的ではなく、それ以前ー美術だとデュシャン以前、音楽だとケーシー以前となろうかーは快楽主義的である。
純粋にこころを揺さぶったもの勝ちというのは快楽主義的である。
そこにはもちろんいろいろなパースペクティブがないわけではないが、目的に快楽が含まれているように思うのである。
そういう意味でクラシックミュージックなどはわかりやすいと思う。
こういう議論は拡散するものだけど、何となくの実感がそこに芽生えたのである。


もっと快楽的な創造を、とアウトローなことを言ってみる。

評価の水準


友人のブログのエントリーに興味深いコメントがあったのでそれをもとに少しだけ考えてみた。


「内容がまとまったということになり、
 それの原因を考えた結果そのような誤解、
 誤読をするような余裕のある案かどうかという議論になりました」


とあった。
ここで新しいポイントとされているのは「誤解」という言葉。
誤解の正確な言葉の意味からすれば、「誤解をするような余裕」という表現がおかしいことに気がつく。
「誤解をするような余裕」というのはどういうことであろう。
誤解とは「事実や言葉などを誤って理解すること。思い違い。「真意を―する」「―を招く」」というふうに辞書に記してあるように、間違った形で受け取ってしまうということである。
それをする「ような」ということは誤った理解をする状況をさしているのであり、その「余裕」ということは言葉通りに考えるなら、誤った理解をする余地があるというふうに言えるのではないか。
話は戻り、また誤解に焦点を当てる。
誤解という言葉の意味からすれば、どのような物でも、どんな時でも誤解が生じる可能性があるはずである。
という観点からすれば「誤解をするような余裕」というのが当たり前すぎることをわざわざ表現している言葉の使い方であることわかる。
ここに一つの前提があることが浮かび上がる。
それは誤解は限りなくないようにされるというものである。
このエントリーで扱われている対象はコンペティションに応募する作品であり、その表現方法はその性質上、意図を明快に伝えることが必要とされる。
この状況において、その前提が自然とあるわけである。
「誤解をするような余裕」という言葉の真意は、どうやら「そのようなことが前提とされていることを疑え」ということにヒントがありそうだ。
では前提を疑うということはどういうことか。
誤解がないようにというのは、「誤解が起きる可能性を減らす」と言い換えることができる。
疑うということは「減らす」から何かに変化させることを意味している。
ここで次の台詞を見てみよう。


「強い提案というのはそのような誤読=奥行きのようなものがあるような気がします。」


とある。
どうやら「誤解」は見当たらないが「誤読」に変化したように考えられる。
この変化は「理解をする」=「読み取る」関係にあるとき成り立つことを指摘だけしておく。
ここでは「誤読」=「奥行き」という注目すべき関係が展開されている。
では「奥行き」とはどんな意味で用いられているのか。
「奥行き」とは器が大きい人間の人格などに対して述べられる言葉である。
けっして単純な人格には用いられることはない。
ここで単純を一対一の関係がある状態であるとすれば、奥行きがある状態とは一対多(複数)の関係があるというふうに言える。
つまり「奥行き」というのは、ひとつ以上の意図を感じることができるという意味であるのではないか。
そうすると「奥行き」=「誤解」というのは、通常マイナスのニュアンスで使われる「誤解」をある意味ポジティブに捉えていることになる。
以上より「誤解をするような余裕」というのは「一つ以上の意図を感じることができるように、誤解が起きる可能性を残すこと」ということができる。
ここで「誤解をするような余裕」が明らかになったが、それが「強い提案」の要件に含まれていると書かれている。
よってそのエントリーが意味する「強い提案」というのは「一つ以上の意図を感じることができるように、誤解が起きる可能性を残すこと」が必要とされることがわかる。
前の方にも書いたが本来提案とは「誤解が起きる可能性を減らす」ことが必要とされ、そうするとこのエントリーでは逆のことを意図しているように思える。
しかしそうではない。
逆ではなく、可能性を広げたのだ。
誤解される可能性があるのではなく、誤解される可能性を残すもしくは誤解をも計画に盛り込むということである。
言葉という形式でそのような状況を起こすのは詩人の仕事で、建築という形式では建築家の仕事なのである。
このようなことは非常にポエティックなことだと言える。
近代的思考(科学に基づいた論証可能であるという前提)に嫌われてきたポエティックという状態を持つ提案こそ「強い提案」であるのだ。

こういう再開

ありかと。

恋愛の名言1:14
『あなたの心は開いています、だれでもはいっていけるように。本当はわたしだけの入口になるはずだったのに。』
リルケ
好きな人にいつでも側にいて欲しい余り相手を束縛していませんか?
難しいですが相手のことを信じてあげてくださいね♪

恋愛の名言2:12
『恋に狂うとは詞が重複している。恋とはすでに狂気なのだ。』
ハイネ
あなたはなかなか上手に恋愛していませんか?相手も上手にあなたの事を好きになっているかも知れませんね。これからも素敵な恋愛をしてくださいね。

貴方の為の恋愛座右の銘!:168
『恋は多くの人生の苦痛を包むオブラアトなり。』
国木田独歩
人生の悩みは人を好きになる事で癒す事も出来る事があります。

いろんな人の名言は素晴らしいのですが、現実になにも効用がないのが一番の難点です。
よかったら、みなさんも。
http://www.gencyan.com/style101.html

次の総裁選が少し気になる


阿部さんと麻生さんと谷垣さんが候補の総裁選。
自分の希望として麻生さんを推します。
がいろいろ気になっていることがあります。
簡単にいえば靖国に対する態度。
阿部さんが従来どおりの路線だとすれば、麻生さんは少しだけメスを入れようとしている。
どうやら靖国を宗教法人でなくするという考えらしい。
するとどうなるかというと信教の自由から政治が介入出来なかった靖国の問題を、靖国を政府の持ち物にすることで、政治介入出来るようにしようと言うことらしい。
そうすればいろいろ国益にかなうように政府が振る舞えるからってことだけど、僕はそれはおかしいと思っている。
細かい事例を挙げて論理的に導くことをしないけど、おかしいと思っている。
僕の認識によれば靖国は「記憶の装置」や「想いの装置」であり、そういうものは誰かの強制を、圧力を受けて成立させるものではないと考えるからだ。
どんなに内容がばかばかしくても、どんなに不道徳でも、「想い」を縛ることは政府がするべきではない。
現にそうしないように憲法でも書いているんだし、そんなに人間の支配をすすめていいのかと思ってしまう。
靖国は制度をいじっちゃいけないよ。
むしろ人間を縛れと要求してくるキチガイの国に対して「バカのこと言ってんじゃねぇ」くらいいわなきゃ精神論的には納得出来ない。
麻生さんにしても阿部さんにしても家族ぐるみで政治をみてきているところだから、一般の人よりも靖国に対しては思い入れが深いと思うんだけどな。
まぁ阿部さんはむしろなに考えてんのか分かんないくらい強硬派な一面持ってそうなのが怖いけど、麻生さんのその考え方が気に食わないから、阿部と言うわけに走らずに、でもまぁトータルとして麻生さん。
トータルというかそこだけ眼をつむって。
だって顔がヤクザだし、かなり芯があって強そうだし、マンガ大好きだし、やってくれたらドラマティックな政治になること間違いなし。
そうなることを願ってます。
ところで現官房長官北朝鮮問題に対してかなりはしゃいでしまったせいで、うわさ程度で日本は戦時体制に入って徴兵制が復活するっていうのをみみにしたけど、そんなのはよく調べればわかることだけど、というかよく調べなくても想像はつくけど、復活なんてあり得ないから。
だって破壊力満点の兵器がたくさんある現代において戦闘は一瞬で決まっちゃうでしょう。
大東亜戦争時も最初から徴兵制を厳しく引いていたわけではなく、戦争が総力戦に向かったからな訳で、現代においては誰かがキレてニュークリアの原理を詰め込んだミサイルを飛ばしたらいろんな意味で終りなわけで、総力戦にはいかないからね。
もしもそういう戦闘で決まっちゃうのがおかしいと思う連中がでてきて昔の決闘みたいにルールを決めて、例えば長距離砲を使わない、もちろん核も、ってのがあって総力戦しかないとなったらあり得るかもだけど、そういうことは倫理的にあり得ないからね。
徴兵制の話について詳しく楽しく知りたかったらどうぞ、こちらへhttp://obiekt.hp.infoseek.co.jp/peacemaker/draft_0.html
話は脱線したけど、そろそろ小学校も登校日でいろいろあるからそういうことを考えてもいいかなってことで。