評価の水準


友人のブログのエントリーに興味深いコメントがあったのでそれをもとに少しだけ考えてみた。


「内容がまとまったということになり、
 それの原因を考えた結果そのような誤解、
 誤読をするような余裕のある案かどうかという議論になりました」


とあった。
ここで新しいポイントとされているのは「誤解」という言葉。
誤解の正確な言葉の意味からすれば、「誤解をするような余裕」という表現がおかしいことに気がつく。
「誤解をするような余裕」というのはどういうことであろう。
誤解とは「事実や言葉などを誤って理解すること。思い違い。「真意を―する」「―を招く」」というふうに辞書に記してあるように、間違った形で受け取ってしまうということである。
それをする「ような」ということは誤った理解をする状況をさしているのであり、その「余裕」ということは言葉通りに考えるなら、誤った理解をする余地があるというふうに言えるのではないか。
話は戻り、また誤解に焦点を当てる。
誤解という言葉の意味からすれば、どのような物でも、どんな時でも誤解が生じる可能性があるはずである。
という観点からすれば「誤解をするような余裕」というのが当たり前すぎることをわざわざ表現している言葉の使い方であることわかる。
ここに一つの前提があることが浮かび上がる。
それは誤解は限りなくないようにされるというものである。
このエントリーで扱われている対象はコンペティションに応募する作品であり、その表現方法はその性質上、意図を明快に伝えることが必要とされる。
この状況において、その前提が自然とあるわけである。
「誤解をするような余裕」という言葉の真意は、どうやら「そのようなことが前提とされていることを疑え」ということにヒントがありそうだ。
では前提を疑うということはどういうことか。
誤解がないようにというのは、「誤解が起きる可能性を減らす」と言い換えることができる。
疑うということは「減らす」から何かに変化させることを意味している。
ここで次の台詞を見てみよう。


「強い提案というのはそのような誤読=奥行きのようなものがあるような気がします。」


とある。
どうやら「誤解」は見当たらないが「誤読」に変化したように考えられる。
この変化は「理解をする」=「読み取る」関係にあるとき成り立つことを指摘だけしておく。
ここでは「誤読」=「奥行き」という注目すべき関係が展開されている。
では「奥行き」とはどんな意味で用いられているのか。
「奥行き」とは器が大きい人間の人格などに対して述べられる言葉である。
けっして単純な人格には用いられることはない。
ここで単純を一対一の関係がある状態であるとすれば、奥行きがある状態とは一対多(複数)の関係があるというふうに言える。
つまり「奥行き」というのは、ひとつ以上の意図を感じることができるという意味であるのではないか。
そうすると「奥行き」=「誤解」というのは、通常マイナスのニュアンスで使われる「誤解」をある意味ポジティブに捉えていることになる。
以上より「誤解をするような余裕」というのは「一つ以上の意図を感じることができるように、誤解が起きる可能性を残すこと」ということができる。
ここで「誤解をするような余裕」が明らかになったが、それが「強い提案」の要件に含まれていると書かれている。
よってそのエントリーが意味する「強い提案」というのは「一つ以上の意図を感じることができるように、誤解が起きる可能性を残すこと」が必要とされることがわかる。
前の方にも書いたが本来提案とは「誤解が起きる可能性を減らす」ことが必要とされ、そうするとこのエントリーでは逆のことを意図しているように思える。
しかしそうではない。
逆ではなく、可能性を広げたのだ。
誤解される可能性があるのではなく、誤解される可能性を残すもしくは誤解をも計画に盛り込むということである。
言葉という形式でそのような状況を起こすのは詩人の仕事で、建築という形式では建築家の仕事なのである。
このようなことは非常にポエティックなことだと言える。
近代的思考(科学に基づいた論証可能であるという前提)に嫌われてきたポエティックという状態を持つ提案こそ「強い提案」であるのだ。