宅地割りを考える1


宅地割りを一番最初に意識的に用いたとされる日本の例は、平城京であろう。
詳しくいうと長岡京のほうが先かもしれないが。
律令と時期を同じくして大陸から持込まれた条坊制
条と坊の通りが直行して碁盤の目状に都市を形成するやり方である。
ココでは一区画の形が正方形となりその中を住人は使っていた。
このやり方では何よりも「通っている」ことが大切にされた。
つまり律令のような整然とした様子を都市に持込むことが重要視されたのである。
そこの計画においては儀式的な意味はあっても機能的な意味は少なかった。
住人達をつぶさに観察すれば機能的な意味も派生しているのだろうけど、あくまでも計画段階には機能的意味はなかった。
この時代にはルネサンス以降発見/発明される「人」が意識されていないと言える。
日本における次の計画的な例は戦国時代の城下町に見られる。
知っての通り城下町の計画は、城の防衛に向けて行われている。
天守に行く動線を長く確保することに始まり、燃えないようになどといろいろ気を使ったことが知られている。
ここでは、殿様が守ることが優先されたため、通っていないこと、「迷路性」が大切にされた。
よって城下町は天守―城ー武家屋敷ー城下というような防衛の仕方を示すと共に社会的階層性を示す。
この時代も「人」は意識されていない。
この後明治維新によって時代は変わるが都市に大きく変換を迫った制度は戦後をまたなければならない。
(実際は、不燃の考え=レンガ、瓦や西洋的威厳を示す計画が上がったが大多数の人の生活を著しく変えるっことはなかったと言える。)
戦後の一番の問題である住宅不足それによって出てきたのが公団である。
モダニスト達によって持込まれたモダニズム的精神が活躍する。
つまり「人」を科学的視点から望むという画期的なことが行われるようになる。
それを経て彗星のごとく登場するのが51C型である。
それによって最小限の暮らしを反復する方法ができあがる。
モダニズムの一番の発見とは、「人」を見ることではなく、反復に美学を見たことかもしれない)
そして「人」を分解して効率を導き出し、住棟間隔なるものを生み出し、日のあたる南面をよしとする確固たるスタイルを完成させたのである。
これによって生み出された団地は同じ四角い箱がある一定間隔をおいて南を向くある種異様な風景となったのである。
近代社会における経済の重要性がますにつれて、効率こそすべてだという資本と直結した方法は戸建て住宅の供給にも波及した。
もっとも資本の効率がよく敷地が割れるように道路を敷くという方法に至ったのである。
それが今日多く見られる住宅地の基礎となっている。
本来「人」を見つめたはずのモダニズムが資本に回収されて「人」を見失った結果がこのような宅地割りを導いている。
ここでも「人」が意識されていないのである。
(つづく)