将来/主張


現在進行形で建築における装飾の問題に取り組み中。
それ関係の卒論やっております。
予定では今週末ぐらいにはあらかた片付けたいと思っているところ。


ところで僕の才能は何なのか?
もしくは能力は何なのか?
とかちょっと考えた。
それを挙げることができれば、将来のことを考える足がかりとなるからだ。
………。
分かるわけないじゃん、自分で。
どこまで力があるかなんて分かるか〜い(怒)。
そんなわけで視点を少しずらしてみることに。
自分が社会に何を成せるか?を考えた。
後世に影響を与えるような行動、例えば革命とか世紀の大発見はできないだろう。
というかそんな気はさらさらない。
じゃ今やっている専門である建築をやるか。
といってもいろんな分野があってどれかしぼることができない。
自分の中で分野に優先順位が今んとこない。
しかしどうやら計画するほうでありそうだ。
現場じゃないというぐらいの感じで。
人の考えたものを達成するために知恵を使うというのはどうも想像できないので。
そういうわけで自分の中で決まっている方向は建築やるぐらいのゆるい感じである。


というよりむしろ建築という分野が僕の中でのツールであるような気もする。
つまりアウトプットとして建築あるのだけど主張は主張であるという感じ。
じゃ、お前ない主張してんだよと聞かれたら、どう答えるだろうか。
その時は、今の時流に反発してんだよというと思う。
ここで今の時流ということは何をさしているかと言うと、この社会に当たり前として存在している何かである。
一番イヤだと思っていることは、社会一般のという流れという価値観の上で判断されること。
このような価値観は、一般的であると前提に含めているのでどうしても客観的という風に考えられ、ルネサンス以降築いてきた価値観によってそれがよいこととされてしまう。
しかしよくよく考えると社会一般において認識されることが真であると絶対に言い切れない。
むしろそういう考えが、ガリレオを殺してきたし、罪のない人を不幸にした。
そのような論調は決して珍しくはないが、ちゃんと意味を分かっている人はどれくらいいるだろう。
自分の今生きている態度を同じ尺度ではかろうと試みているだろうか。
多くに人にとって幸福なことが、その他の人にとっても幸福だとどうして考えられるのだろうか。


しかしそんなこと頭で分かっていても実践はできないものである。
人になにかを勧める、アドバイスすると言った状況を考えてもらいたい。
誰もがその人にとって一番よいと合理的に考えられることを勧めるだろう。
しかしそこにはどうしても未来の予測が入ってしまう。
しかも近代以降において進歩すること、前進することこそ正であるという価値観が一般化し、それによってしか未来を捉える術がないからである。
その人が発展することが幸せだという価値観でしか判断できない。
それこそ社会を歪ませてきた原因ではなかったか。
進歩の対局が調和だとして、調和を考えろとはいわない。
そんなもの何の解決にもならない。
親身になって考えてあげるなら、自分にとってどんな人であってほしいか、が一番の答え方ではないだろうか。
それこそちゃんとしたコミュニケーションである。


社会の多くの側面に同じようなことが観測される。
考えの基点が自分の外にあるものは、間違えやすいし、責任も取ることができない。
日本人特有の考え方といわれてきた足並みを揃えることは未だに脱却できていない。
より多くの人がと一人の人が考える時代の終焉はもうすぐそこだ。
少なくとも知っている人すべてが幸せであるというローカルなつながりこそが力を持つことになるだろう。
それは単に似た者同士のグループという狭いではない、関係した人すべてだ。
それにはまだ個人の自覚が追いついていない。僕も含めてだ。
個人の自覚とは個性的な人という意味では決していない、その存在が多くの関係の中でのみ見出されるといったような自覚である。
周りを見渡すとその徴候は見え始めているもののスタンダードになるにはまだ何十年も必要である。


そのような自覚こそが大切であるということが僕の主張である。
僕が活動をする時にその考えはきっと必要であると思う。
そんなことがなくても仕事はできますが。



今回はなんら確信がないまま歴史的指導書風に展開してみた。
所詮風かもしれないし、中身もやんわりとした実感でしかない。
社会に向かって発言する根拠を消しているような気もするがそんなつもりもない。
最初に装飾な話等出したのはすべてつながっているからである。
これに関しては友人との学術的無駄話から大きく影響を受けている。
ちなみに装飾と個人と大衆と社会と進歩と必要性がずっと気になっている。
これからも何か考えるときは割とそのキーワードについて考えていることが多いかも。


批判多いに歓迎。